ダベり場
2021.05.22
CATEGORY:日常
コースケはマンガ好きである。
一番幼いころのマンガに関する記憶は「Dr.スランプ アラレちゃん」であったり、「ドラゴンボール」であったり、「美味しんぼ」や「ミスター味っ子」あたりといった作品で、これらの内容は割とよく記憶に残っていると思う。
多くのJリーガーにとって「キャプテン翼」がバイブルであるように、子供の頃に料理マンガを見ているというのは、今にしても自分の人生に大きな影響を与えているなぁ、と思う。
さすがにクールジャパンの筆頭コンテンツはパワーが違うぜ。
さて、そんな子供の頃からのマンガとの付き合いだが、これだけ長く接していると、ひとつや二つくらい「長い付き合い」になっている作品なり何なりっていうのが生じるものだ。
その一つは間違いなく、楠みちはる:著「湾岸ミッドナイト」及び、その精神的後継作品群である。
「湾岸ミッドナイト」の精神は現在、「首都高SPL」に受け継がれている。
「湾岸ミッドナイト」は一般に販売されている車を改造し、首都高を300Kmという猛スピードで駆け抜ける車とドライバー達の物語である。
本作の面白いところは300Kmという、一般人からすれば一生体験することが無い猛スピードで走る車のお話しであるにも関わらず、あんまりスピード感を感じないという点にある。
と、いうのも、「コンマ一秒の中で1mmだけハンドルを曲げ、1mmだけアクセルを踏み込んだから早くコーナーを曲がることができた」的な、動的要素が連続することによって読者に緊迫したスピード感を体感させるのではなく、むしろ「今この走りに、想う」とでも言うような、高速に消えゆく車の残影に乗せて、ドライバーの心情が綴られるシーンが多いからではないか?と個人的には感じている。
また、本作は「車に乗っていないで、ダベる」シーンが多く登場する。
300Kmバトルを終えたサービスエリアで敵味方関係なく、缶コーヒー片手に「車ってのはサァ・・・」と、ああでもない、こうでもないと、車談議が始まったりする。
会話の内容はさておき、話の中に含まれる「真実のカケラ」が車好きの如何に関わらず、「ふむふむそうか、ナルホド」と、さながに彼らの話を傍らで聞いているかのような錯覚に陥る・・・というのが、本作における数多い魅力の一つであることは間違いないだろう。
さて、メーカー消費者問わず、昨今の酒類事情はとても冷え込んでいる。
その理由はもちろん、コロナ禍における外出自粛のお願いによるものだ。
「自粛」だけならばいざ知らず、お偉いさんが「酒を出すな、呑むな」と来て、ついには「売るな!」というのだから、我ら酒造メーカーにとっては読んで字のごとく「商売あがったり」である。
メーカーも超大打撃だが、呑兵衛にとっても大打撃であるのは言うまでもないだろう。
「仕事帰りの楽しみの一杯」が奪われたのだから。
そんな状況なので、メーカー消費者ともども不満が出る事は当然である。
まして、そのお達しを出しているお偉いさん方はシレっと飲んでいるのだから、怒りが激怒になるのは当然である。
だが、ひょっとしたら、お酒に興味が無い人はこう言うかもしれない。
「家で飲めばいいじゃん。」
この言葉にあえて反論しよう。
「違ェんだよ!!」
では何が違うのか?
酒そのものは限定流通品や保存状態といったことを除き、余程の理由が無い限り、「居酒屋で出てくるものも、小売店で売っているもの」も極端な違いはない。
それならば、おツマミが違うのか?
確かにプロの技による酒のツマミあってこその酒という側面もあろうが、これを反論の根拠とするにはチト、反論のインパクトに欠けるきらいがある。
何故か?思うに「酒飲みは殆どの食べ物を酒の肴にできる」という特殊スキルを持っているからである(笑)。
そうなると、「居酒屋の、場の雰囲気」というのが理由だろうか?
昨今はオンライン会議も一般的なものになってきたので、いわゆる「オンライン飲み会」も決して一部の特殊な方々もの・・・というホドではないだろう。
しかし、オンラインでは決して醸成出来ぬ「雰囲気」というのが居酒屋にはある、というのは、少なくとも呑兵衛の方々には同意を得られるのではないかと思う。
言い方を替えれば、
「オンデマンドで見る映画と、映画館で見る映画はタイトルが同じでも、違う」
「ゲーセンで遊ぶゲームと、家庭用で遊ぶゲームはタイトルが同じでも、違う」
みたいな?
この「雰囲気」と言うのは実は”ちょっと曖昧”である。
この「雰囲気」には幾つもの要素が含まれていると思うが、その内の一つには「ダベり場」という要素があるのではないか?
「ひとり居酒屋」というスタイルもあろうが、多くの場合、居酒屋に行くのは複数の人間が店に赴く事が大半ではなかろうか?
仕事で乾いたノドを潤す一杯を期待して居酒屋に行く、という側面もあろうが、実は居酒屋に行く理由には「ダベり場を求めて」という側面もあるのではないか?というのが、本稿の核となるメッセージである。
今回のコロナ自粛の一環で呑兵衛が怒ったのは、酒が飲めなくなるだけではない、人に命令しておいて自分だけは酒を口にしたおエライさんへの怒りだけではない。
人と話す、コミュニケーションの場を奪われた。
これこそが、昨今の自粛に対する怒りの一成分ではないか?
そしてそれは、仕事だけでない、プライベートだけでない、何とも曖昧な、しかしとても大切な場であることの証左と言えるのではないか?
そんなことを、夕方のコロナ禍ニュースを見ながらふと思う、今日この頃である。
(SNSとは連動していません)
